ひきつづき(しかしうろ覚えになりつつ)宮崎親子


 そうして、そうやってゲド戦記をつくった宮崎吾朗のことを、宮崎駿が「他のスタッフにとっては全く必然性はなかったけど、彼にとっては必要な仕事だったんでしょう」みたいなことを言っていて、そうしゃべっているときの表情はすごい説得力を持っていて、それは優しいというのでもなかったし、厳しいというのでもなかった。そういうその都度の態度の一面性みたいなものにとらわれない表情と言葉で、息子がやった自分と同じ種類の仕事についてコメントするというのはすごいことだ。

 その言葉は学部四年のときに見田さんと西口さんと行った(西口想とそのとき初めて会った)保坂和志がゲストを務めた他大学の授業で、発表者の大学院生の発表について、保坂和志が「なんていうかいま発表してくれたことは私にとっては全然重要じゃないんだけど、あなたにとっては重要な問題を考えてくれたんだと思うんだよね」みたいなことを言ってて、すごいなと思ったのとちょっと似ていて、やっぱり優しくも厳しくもないけど(少し厳しいかな)、優しいとか厳しいとか、教育的だったり保護的だったりしない態度で、つまり教育的に、保護者的には意味のない態度で、そういう角度のコメントは、コメントされた人を救わないかたちで救っていると思う。このいいかたはなんかだめかもしれなくて、どういえばいいのかわからなくて、困るけど、救わないかたちで救うというのは、救わないのほうに強い比重があってそのことで仕事そのものをみつめる視座が与えられるという救いがあるというようなことだと思う。

 これ以上考えられないのでまたこんど考える。

NHKの番組で宮崎吾朗の決意に感動した。

私は父の重圧みたいなものは社会的なものとしてはあんまり感じてなくて(倫理的なものとしては結構感じるけど)、宮崎吾朗が父と違う職業を選んだ後で、鈴木敏夫ジブリ美術館の建設にあたって父と仕事(アニメでないにしろ)をすることになって、そのあとまたもや鈴木敏夫が「彼(吾朗)にはイメージがある」という理由で監督を打診したのを、実家で父母と三人で見ていて、ゲド戦記をみてやっぱり少しがっかりしたし、けど父親には及ばない、みたいな評判にはうんざりしたという、そして別段深く考えようとも思わないまま、忘れていた身としては、素人の二世が国民的なアニメ映画会社の作品の監督をやってしまうというあまりの残酷な状況を「仕掛けた」鈴木敏夫はやっぱりひどいと思ってしまって、「断ったほうがいい」と、もうゲド戦記をみたくせに、そしてコクリコ坂をみてないくせに思ってしまった。

でも(当たり前だけど)宮崎吾朗さんは仕事を受けた。
父にはアニメの世界に入りたいといわず、母にだけ相談して、
「才能の世界だから」とだけ言われて、
たぶんいろいろ悩んで、ちがう道を選んだ人が、
30そこそこで、素人として鈴木敏夫の話にノったということが、
もう事実としては知ってたにも関わらず、「すごいことだ」と思った。
才能という言葉は、偉大な業績を持つ人間を親族に持つ人たちには、かなり具体的な手触りを持って(たぶん「血」とかいうイメージももちつつ)、自分が同じような道に進むのかどうかという状況では必ず現われてくる困難なんじゃないかと思う。自分は幸か不幸かそういう親族がいないから、にしても「才能」という言葉には結構いつも打ちのめされるのであって、そうやって打ちのめされる人は、言語的にしか「才能」を克服できないと私は思う。「才能」に打ちのめされる人は、困難を感じる人は、「才能」という概念をなんとかして克服しないと、手を動かせないと思う。

で、宮崎吾朗はかなり言語的に乗り越えていこうとしてるように見えた。理屈で、といったほうがいいか。理屈を超えたものを求められて、それは自分でもわかっているけど、理屈を通さないとそれをできない状況が宮崎吾朗を取り巻いていて、彼は自分にできるのか、できないのか、判じあぐねて、できるかできないかではなくて、やるしかない。といった感じで監督することを受けたように、自分は番組をみて感じた。そしてそういう、やるしかないというやりかたで、コクリコ坂も作っているように見えた。

一度職業として別の道を選んで、かつてやりたいと夢見た、今も夢見る仕事を、やるしかないという態度でやってしまったことに感動した。全面的な成功はありえないなかでそういう選択をし続けるということに敬意をもった。そしてそういう弱弱しくも猛々しい態度で、父と違う形で父と同じ土俵にたとうとする宮崎吾朗に素朴に勇気を与えられた。





ヒルネと一日
















「詩とは勝利を失うものである。そして権威ある詩人とは勝つために、死にいたるまで敗れることをえらぶ者である」(『文学とはなにか』)
 サルトルはここで詩人を散文家との対比において語っているが、これは文学者全般について言われることである。このことは彼が先年わが国に来た時に京都で行なった講演『作家は知識人か』によっても明らかであろう。詩人とちがって勝利をめざさなければならない人間は、散文家というよりもむしろ行動的人間あるいは政治的人間である。そして詩人も一人の人間として倫理的社会的に責任を負っている以上、行動的あるいは政治的人間であることを免れることはできない。彼は詩人としては敗れることを選ばなければならないが、行動人としては人間解放のためのたたかいでの勝利をめざさなければならない。そして同時にこの両者であること、また哲学者としてこの矛盾の統一を自覚的論理的に明らかにすること、それがサルトルの仕事であり、また彼の姿勢あるいは思想がわれわれに対してもっている重要な意味である。
「諸君はブハーリンたるか、それともジュネとなるか、いずれかを選ばざるを得ない。ブハーリンとは言いかえれば殉教にまで押し進められた〈共にあらん〉(原文傍点)とするわたしたちの意志であり、ジュネとは受難劇にまで押しすすめられたわたしたちの孤独である」(『聖ジュネ』)。
 この二つの方向を〈同時に〉(原文傍点)押し進めること、矛盾の中心に身をおいて、自分自身の実践によって矛盾を拡大しながら統一すること、ここにサルトルの普遍的な独自性があると言えるのではないか。

サルトル手帖〈CARNET SARTRIEN〉3』「矛盾の人サルトル矢内原伊作

『好物』を新たに置かせてもらうことになった書店で、そのときに買ったサルトル短編集『壁』に小さい二つ折りの紙切れが挟まっていて、上記のタイトルがついていた。この短編集は全集のひとつらしく、サルトル手帖がいくつまであるのか知らないけど、夕飯をとったラーメン屋で待ち時間に読めるくらいの短さで、面白く読んだ。

前半『嘔吐』の簡単な説明のところで、「しかし彼はこの価値を自己のものとして掲げることができない。なぜなら価値の欠如が彼の自由の根拠なのだから」とあって切実だなあと思うも、こういう抽象的な用語を使って考えることのものすごい不自由さが感じられる。

『嘔吐』は学生のときに買ってずっと読んでないので、夏じゅうに読みたいと思った。ベケットの『モロイ』も買って読んでない。買って読んでないけど思い入れだけ強くて、掃除のたびに古びた表紙を手ですりすりしてしまう本がまだ何冊かある。部屋は片付いたからゆっくり読もうと思う。

マス

マスをマスとしてそうだこうなんだマスなんだと受け容れてしまう要領のよさと愚かさ。

個人を個人として、そうだ個人なんだ結局のところ一人なんだと、受け容れてしまう要領のよさと愚かさ。

それが自明なだけ理解したんだ経験上という賢さは、同時にそれが自明だと信じる愚直さを伴わざるを得ない。

というのも、理解の蓄積でより大きな理解へといたろうとしているので、その行為自体は無限に行なえそうなことに気づくことになるし、それに対する自分という資源の限られているさを感じることを、「悟」って諦めのにじんだ笑顔と日々を、繰り返すようになる。

向いているほうから回転してみると、そうすると、理解が蓄積されていないことはわかると思う。理解は在ったり無かったりしながら繋がってはいるけど、蓄積はされていない。ある場所に住んでると大体の位置関係を覚えるけど、道と構造物の配置を完全に覚えるわけじゃない。

じゃあ思考と理解はどんな形をしているのか。どんな動きで輪郭を、かえているのか炎の軌跡みたいに。つぶが、どんなかたちで、軌道でふってくるのか雨のときみたいに。たくさん同時に、表面に輪をつくり輪をつくり輪をつくり同心円状のそうでないものが、あちこちでさっきからきっと少しあとまであるいはずっと雨の日のように。

進んでいないことを前提にしたら、考えるとはなんだ。

それが関心事。

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いい顔シリーズ


全くです、全く僕は叫びました。


デスク・トップ・パブリッシングの勉強をしていて、

デスク・トップ・パブリッシングに使用する機器の、

ハードウェアとソフトウェアがあることを知り、

参考書曰く「ハードウェアとは目に見えて手で触れるもの。ソフトウェアとは目に見えなくて手でさわれないものと理解して、大体よいでしょう」

参考書加えて曰く「ソフトウェアはハードウェアを動かす機能をもっています」

思うに、基盤や半導体等々、非理系の私の頭に想像されるそれらの目に見えて、手でさわれる物質的なハードウェアたちが、外部の指令を受けたソフトウェアの指令を受けて動かされるとき、それは同時だろうか?

思うに、ハードウェアと呼ばれる領域は、彼等自身では判断を行なえないので、ソフトウェアが命令して動かすのだろうけど、基盤とかもろもろ物質的な保障があるからソフトウェアが立ち上がるのであって、ハードウェアが作動しないとソフトウェアは行動できない。だからソフトウェアはハードウェアに先立たない。しかし、ハードウェアは命令なしに動けないからソフトウェアがあるのであって、ここに底の見えない淵が現われるのではないか。

しかし、そう考えたそのときに、すぐに、ハードウェアの起動とソフトウェアの起動はやはり同時なのだと思ったのは、これらの起動がひとつ電子の流動によって起きることを、あの単純な電源という装置から連想したから。

そして、無意識に心身という類推をコンピュータに行なっていたことにきづき、けれど思いつきを進め、人間にも血が流動している。と思った。

人間の動源はなにか。

それは電源から類推できるものではなくて、逆に、電子の流動によって自らは動かないものを第三者的に動かし、その上に判断主体を発生させ、その命令によって抽象的・言語的な空間の影響力を爆発的に進化させた発明に素朴にすごいと思った。

私は数学ができなかったし今もできないし、そのため理科一般の授業中ねていて、もしくは聴講さえしておらず、そのあたりの素養一切がないけど、数学でつまずいた虚数の概念に、「だってないから虚数なんでしょ?」と言ったら、「でもコンピュータはそういった数学の概念がないと動かないよ」と言われて、そのときはすでに自分のPCもあったから、絶句した。

と、今のは抽象言語的な世界のほうの話に引きずられたけど、人間は「ぽちっとな」で動くわけではなくて、自分というソフトが自分を認識するときにはもうたくさんの血が流れて行っていて、というか有機物無機物を分解してとりこんで、不要なものを排泄して、あらゆる流動のなかで自分を発見するわけで、電源的な発想をすれば途方もない物質的な連鎖に気づいて閉口するしかない。

電源から人間の動源を考えるのがおかしい。でもそういう飛躍が愚かにも起きたおかげでこういったことを考えられて楽しかった。

そしてまた、動いているもの、ということに夢中になってしまう。

時間は変化のことで、変化は差といってもいいけど、差と言っても色々あって、もう人間が「差だ」と思えばなんでもありというくらい色々あって、よって時間はあらゆる点からあらゆる点への差であって、あらゆる方向からあらゆる方向へと流れるはずだと思う。生→死、産→老、現状→目的というわかりやすい設定、過去→未来という想像力に支えられて、不思議なくらい太い幅で、私たちはみんな同じ方向を向いて同じ時間のながれを感じているように感じるけど、私は全然それがおかしいと思う。

そもそも動源の話をするような視点を用意すると指標(死・目的・未来)へと向かうという前提がおかしくなるように思う。

始まって終わるというのが間違ってないか?

変化=時間を感じることでしか、不動の今が現われることがないのはどういうことだ?

今は始まりも終わりもなく、ずっと今じゃないのか?

今が揺らぐということが今までにあったか?

耳をすませば途切れなく聞こえる「みみなり」のように、

今は切れ目なく現前している。

そうであれば、永遠という概念は大それたものじゃない。今は永遠に今である。というのは今が変化に支えられてあるのだから、人間は生きている間、変化=時間しか感じられないのだから。それを感じられなくなるときを原理的には感じられないから、時間を感じる主体にとって現在は終わりをもたない。それを客観的に「彼」は終わったとするのはおかしくて、なぜなら「彼」を構成した原子はなくならず、次の構成へと移動するだけだから。「彼」も「彼の終わり」も誰も気づかない間に発生したソフトウェアを他のソフトウェアが「認識しようとしてしきれない」ということしか起きていないから。

でも「彼」がおよそ「彼」というソフトウェアとして感覚できなくなったことくらいは、他の「彼」にもわかるか。

それなら主観が感じることのできる現在は永遠で、死とは「彼」の永遠が「彼」にとっては永遠のまま、他の「彼」がそれが永遠でなかったことに気づく運動か。

こうやって「死とは」みたいになるのは思いつきも甚だしくて、「死」なんてどんな概念だろうがどうでもよくて、かっこつけてもしょうがなくて、動いているものに支えられてずっとぶら下がっている今が不思議ということだった。
*****

昨日麓さんに会った。

制限勤務の定時あがりで、

総武線直通三鷹行きの電車を高円寺で降りて、

ホームをドアとドア一区間分歩いたら視線を感じて、

みたら見たことあるような細い男性が自分を見ていて、

一度視線をそらして思い直してもう一度見たら、

それは麓さんだった。

寄っていって挨拶をしたら、腕をひっぱられて降りたばかりの電車に乗せられて、阿佐ヶ谷に連れて行かれた。





「すべてを変えて/すべてを変えて/あなたはいつもそう唱えつづけ/すべては変わって/すこしずつ変わって/あなたがそれに気づかないだけ」
麓健一アルバム『美化』「踊り続けて」



「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地をその上に置こうと悶いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔に『偽』の一字を烙印します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
 岡本は静に
「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語か!」

国木田独歩牛肉と馬鈴薯」〉

「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや〈What am I ?〉なんちょう馬鹿な問を発して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もう止しましょう! 無益です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労た! しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かして貰えばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚したいというのも物数奇だねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「唯だ言うだけかアハハハハ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。

〈同〉

牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)