ヒルネと一日
















「詩とは勝利を失うものである。そして権威ある詩人とは勝つために、死にいたるまで敗れることをえらぶ者である」(『文学とはなにか』)
 サルトルはここで詩人を散文家との対比において語っているが、これは文学者全般について言われることである。このことは彼が先年わが国に来た時に京都で行なった講演『作家は知識人か』によっても明らかであろう。詩人とちがって勝利をめざさなければならない人間は、散文家というよりもむしろ行動的人間あるいは政治的人間である。そして詩人も一人の人間として倫理的社会的に責任を負っている以上、行動的あるいは政治的人間であることを免れることはできない。彼は詩人としては敗れることを選ばなければならないが、行動人としては人間解放のためのたたかいでの勝利をめざさなければならない。そして同時にこの両者であること、また哲学者としてこの矛盾の統一を自覚的論理的に明らかにすること、それがサルトルの仕事であり、また彼の姿勢あるいは思想がわれわれに対してもっている重要な意味である。
「諸君はブハーリンたるか、それともジュネとなるか、いずれかを選ばざるを得ない。ブハーリンとは言いかえれば殉教にまで押し進められた〈共にあらん〉(原文傍点)とするわたしたちの意志であり、ジュネとは受難劇にまで押しすすめられたわたしたちの孤独である」(『聖ジュネ』)。
 この二つの方向を〈同時に〉(原文傍点)押し進めること、矛盾の中心に身をおいて、自分自身の実践によって矛盾を拡大しながら統一すること、ここにサルトルの普遍的な独自性があると言えるのではないか。

サルトル手帖〈CARNET SARTRIEN〉3』「矛盾の人サルトル矢内原伊作

『好物』を新たに置かせてもらうことになった書店で、そのときに買ったサルトル短編集『壁』に小さい二つ折りの紙切れが挟まっていて、上記のタイトルがついていた。この短編集は全集のひとつらしく、サルトル手帖がいくつまであるのか知らないけど、夕飯をとったラーメン屋で待ち時間に読めるくらいの短さで、面白く読んだ。

前半『嘔吐』の簡単な説明のところで、「しかし彼はこの価値を自己のものとして掲げることができない。なぜなら価値の欠如が彼の自由の根拠なのだから」とあって切実だなあと思うも、こういう抽象的な用語を使って考えることのものすごい不自由さが感じられる。

『嘔吐』は学生のときに買ってずっと読んでないので、夏じゅうに読みたいと思った。ベケットの『モロイ』も買って読んでない。買って読んでないけど思い入れだけ強くて、掃除のたびに古びた表紙を手ですりすりしてしまう本がまだ何冊かある。部屋は片付いたからゆっくり読もうと思う。