昨日麓さんに会った。

制限勤務の定時あがりで、

総武線直通三鷹行きの電車を高円寺で降りて、

ホームをドアとドア一区間分歩いたら視線を感じて、

みたら見たことあるような細い男性が自分を見ていて、

一度視線をそらして思い直してもう一度見たら、

それは麓さんだった。

寄っていって挨拶をしたら、腕をひっぱられて降りたばかりの電車に乗せられて、阿佐ヶ谷に連れて行かれた。





「すべてを変えて/すべてを変えて/あなたはいつもそう唱えつづけ/すべては変わって/すこしずつ変わって/あなたがそれに気づかないだけ」
麓健一アルバム『美化』「踊り続けて」



「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地をその上に置こうと悶いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔に『偽』の一字を烙印します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
 岡本は静に
「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語か!」

国木田独歩牛肉と馬鈴薯」〉

「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや〈What am I ?〉なんちょう馬鹿な問を発して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もう止しましょう! 無益です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労た! しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かして貰えばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚したいというのも物数奇だねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「唯だ言うだけかアハハハハ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。

〈同〉

牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)