マス

マスをマスとしてそうだこうなんだマスなんだと受け容れてしまう要領のよさと愚かさ。

個人を個人として、そうだ個人なんだ結局のところ一人なんだと、受け容れてしまう要領のよさと愚かさ。

それが自明なだけ理解したんだ経験上という賢さは、同時にそれが自明だと信じる愚直さを伴わざるを得ない。

というのも、理解の蓄積でより大きな理解へといたろうとしているので、その行為自体は無限に行なえそうなことに気づくことになるし、それに対する自分という資源の限られているさを感じることを、「悟」って諦めのにじんだ笑顔と日々を、繰り返すようになる。

向いているほうから回転してみると、そうすると、理解が蓄積されていないことはわかると思う。理解は在ったり無かったりしながら繋がってはいるけど、蓄積はされていない。ある場所に住んでると大体の位置関係を覚えるけど、道と構造物の配置を完全に覚えるわけじゃない。

じゃあ思考と理解はどんな形をしているのか。どんな動きで輪郭を、かえているのか炎の軌跡みたいに。つぶが、どんなかたちで、軌道でふってくるのか雨のときみたいに。たくさん同時に、表面に輪をつくり輪をつくり輪をつくり同心円状のそうでないものが、あちこちでさっきからきっと少しあとまであるいはずっと雨の日のように。

進んでいないことを前提にしたら、考えるとはなんだ。

それが関心事。

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いい顔シリーズ