梨を食べたい

梨を食べたいと突然思って、

梨は味がおいしいというよりも。

梨を食うという体験全部がおいしいんだと決めつけて、

梨だけじゃなくて、そういう全部がおいしいというような体験を望む。

スティーブ・ジョブズが死んだというのを残業中に知って、

やっぱりツイッター上では多少関連したことが呟かれていて、

 いまさらスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを字幕つきの動画でみたんだけど、いろいろすごいと思ったけど、「死はとりわけ知的な概念だ」という言葉にものすごいおどろいた。そういう風に考えられるのかと思った。ずっと「死」なんて嘘だ。言葉でしかないんだ。とか思ってたので。衝撃的だった。

 でも良く考えたら、西口想が自分のやってるフリペに連載してくれていた文章は「死」についての考えのめぐりだったにも関わらず、身近で素朴な先輩の死から、一般的でピュアなアクセス不能性について、そして、アクセス不能性へと向かう芸術論、これは「芸術とはアクセス不能なものへの志向性だ!」とかいうのじゃなくて、「アクセス不能なものについての想像と行為のセットを芸術っていってるんじゃ?」という問いで、それ自体散文表現をしているわけで「知的」だった。

「死」という字の形を含めたイメージへの拒絶反応を、やわらかくしてくれた、西口想とジョブズ

※ちなみに確認のために日本語訳を読んでたら、ジョブズは「死はとりわけ知的な概念だ」とは言っていなかった。ひどい読み違いだけど、該当箇所は以下の通りで、自分の飛躍癖にうんざりしつつも愉快。


(前略)
 死というのが有用だが単に純粋に知的な概念だった頃よりも、私は多少は確信も持って言えます。
 誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたくても、そこに行くために死にたい人はいません。それでいて、死は誰もが向かう終着点なのです。かつて死を逃れられた人はいない。それはそうあるべきだから。なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。「死」は「生」のチェンジエージェントだから。つまり古いものが消え去り、新しいものに道を開ける働きです。いまの時点で、新しいものとは、君たちのことです。でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。あまりにドラマチックな表現なのですが、それが真実なのです。
(後略)(翻訳:小野晃司)

<なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。「死」は「生」のチェンジエージェントだから>ってところに今度は震える。流れを感じる。読み違いとともに発見する。<新しいものとは、君たちのことです。でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。>