それは偶然です。

 フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ちくま学芸文庫の上巻を読んでいて、グラモフォン(蓄音機)がいかに霊的なものを物理的なものに捉えなおさせたか、というぐらいのところですでにものすごい興奮している。

 このブログの最初のほうでチョイ・ウニョンさんというアニメーターについて少し紹介して、アニメーションについて語りたいと書いたきり、ずっとほったらかしてあったけど、『グラモフォン・フィルム・タイプライター』でのグラモフォンと人間の記憶との類推について読んでいて、学部の時に自分が「アニメーション」について「萌え」とか「構造」とか「ネタ」とか「メタ」とかじゃなしに、輪郭と色彩が絶えず変化していくような前衛アニメ・実験アニメの気持ちよさについて、ずっと考えてたこととむすびついて、鮮やかなヒントを与えられたような衝撃を受けた。打たれたような気分。

 蓄音機が録音の際に記録盤に「溝」を掘ること、物理的な音の振動を針に反映させてつけた傷を、逆にその針でなぞるときに、同形の振動が生じて、録音時の音が「再生」すること。

 一度ついた溝は再生に役立つけれども、記録されていない未経験の溝は、そのつど傷つけられることでしか「再生」はできないこと。

 こんなこと蓄音機の構造を理解しているひとにはあんまりにもあたりまえだけど、それが人間の記憶の構造と比較されるとこういうふうになる。感覚された刺激と現象はそのつど感覚を司る器官に傷をつけ(溝をほり)、似たような刺激や現象を感覚するたびに、「記憶」が「再生する」。

 一度彫られた溝には、経験は抵抗なくながれていく。繰り返されることで多少の軌道の差では溝は広がらなくなる。それが「記憶」することで、経てきた溝と違う部分に新たに傷つけるものが「未来」なのでは?

 学部のとき、「アニメーション」をどう歓んでいるのか? ということを考え続けて、とりあえず出した結論が、人間の世界認識の成長過程でもっとも原始的なものに「類推(アナロジー)」があって、それは同形の対象に曖昧に同一性を(試験的に)あたえていく機能で、抽象化の能力と言って相違ない。いつか食べたリンゴとこれから食べるリンゴのゆるやかな同一性。表情が常に変化していき、老いていく母へのゆるやかな同一性。昨日まで履けた靴が履けなくなる自分の足への同一性。などなど。学習や記憶にとってそういう可変的な同一性の付与は欠かせない性質にみえる。ちょっと遠回りしたけど、変化していく形状を、連続性と同一性のうちに「認識しようとする」人間の知能の「はたらき」が、動かないはずの絵が動いてしまうことへの純粋な驚きと同時のとき、それが「アニメーションを歓ぶ」ことなんじゃないかということだった。のをだから『グラモフォン〜』を読んでて、さっきの記憶と蓄音機のところで「パーっ!」っと頭を巡った感じがした。


 ところでだから、なにが「パーっ!」っとさせたのかと言えば、溝のたとえであって、それは「アニメーション」を「なぞる歓び(同一性付与の欲望)」と「逸脱する歓び(同一性非付与の欲望)」の二項でしか考えられなかったのが、「類推」という共時的な把握に対して、「現象と記憶と再生」という共時でも通時でもない「物理的な現在(これはつまり、僕がずっと考えている〈今〉ということの全体性じゃないか!)」という切り口が与えられたからで、そうするともっと具体的に「アニメーションの歓び」について語れそうな気がしてきた。

 というところで前置きに収まらなくなったのでつづく。

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)