全くです、全く僕は叫びました。


デスク・トップ・パブリッシングの勉強をしていて、

デスク・トップ・パブリッシングに使用する機器の、

ハードウェアとソフトウェアがあることを知り、

参考書曰く「ハードウェアとは目に見えて手で触れるもの。ソフトウェアとは目に見えなくて手でさわれないものと理解して、大体よいでしょう」

参考書加えて曰く「ソフトウェアはハードウェアを動かす機能をもっています」

思うに、基盤や半導体等々、非理系の私の頭に想像されるそれらの目に見えて、手でさわれる物質的なハードウェアたちが、外部の指令を受けたソフトウェアの指令を受けて動かされるとき、それは同時だろうか?

思うに、ハードウェアと呼ばれる領域は、彼等自身では判断を行なえないので、ソフトウェアが命令して動かすのだろうけど、基盤とかもろもろ物質的な保障があるからソフトウェアが立ち上がるのであって、ハードウェアが作動しないとソフトウェアは行動できない。だからソフトウェアはハードウェアに先立たない。しかし、ハードウェアは命令なしに動けないからソフトウェアがあるのであって、ここに底の見えない淵が現われるのではないか。

しかし、そう考えたそのときに、すぐに、ハードウェアの起動とソフトウェアの起動はやはり同時なのだと思ったのは、これらの起動がひとつ電子の流動によって起きることを、あの単純な電源という装置から連想したから。

そして、無意識に心身という類推をコンピュータに行なっていたことにきづき、けれど思いつきを進め、人間にも血が流動している。と思った。

人間の動源はなにか。

それは電源から類推できるものではなくて、逆に、電子の流動によって自らは動かないものを第三者的に動かし、その上に判断主体を発生させ、その命令によって抽象的・言語的な空間の影響力を爆発的に進化させた発明に素朴にすごいと思った。

私は数学ができなかったし今もできないし、そのため理科一般の授業中ねていて、もしくは聴講さえしておらず、そのあたりの素養一切がないけど、数学でつまずいた虚数の概念に、「だってないから虚数なんでしょ?」と言ったら、「でもコンピュータはそういった数学の概念がないと動かないよ」と言われて、そのときはすでに自分のPCもあったから、絶句した。

と、今のは抽象言語的な世界のほうの話に引きずられたけど、人間は「ぽちっとな」で動くわけではなくて、自分というソフトが自分を認識するときにはもうたくさんの血が流れて行っていて、というか有機物無機物を分解してとりこんで、不要なものを排泄して、あらゆる流動のなかで自分を発見するわけで、電源的な発想をすれば途方もない物質的な連鎖に気づいて閉口するしかない。

電源から人間の動源を考えるのがおかしい。でもそういう飛躍が愚かにも起きたおかげでこういったことを考えられて楽しかった。

そしてまた、動いているもの、ということに夢中になってしまう。

時間は変化のことで、変化は差といってもいいけど、差と言っても色々あって、もう人間が「差だ」と思えばなんでもありというくらい色々あって、よって時間はあらゆる点からあらゆる点への差であって、あらゆる方向からあらゆる方向へと流れるはずだと思う。生→死、産→老、現状→目的というわかりやすい設定、過去→未来という想像力に支えられて、不思議なくらい太い幅で、私たちはみんな同じ方向を向いて同じ時間のながれを感じているように感じるけど、私は全然それがおかしいと思う。

そもそも動源の話をするような視点を用意すると指標(死・目的・未来)へと向かうという前提がおかしくなるように思う。

始まって終わるというのが間違ってないか?

変化=時間を感じることでしか、不動の今が現われることがないのはどういうことだ?

今は始まりも終わりもなく、ずっと今じゃないのか?

今が揺らぐということが今までにあったか?

耳をすませば途切れなく聞こえる「みみなり」のように、

今は切れ目なく現前している。

そうであれば、永遠という概念は大それたものじゃない。今は永遠に今である。というのは今が変化に支えられてあるのだから、人間は生きている間、変化=時間しか感じられないのだから。それを感じられなくなるときを原理的には感じられないから、時間を感じる主体にとって現在は終わりをもたない。それを客観的に「彼」は終わったとするのはおかしくて、なぜなら「彼」を構成した原子はなくならず、次の構成へと移動するだけだから。「彼」も「彼の終わり」も誰も気づかない間に発生したソフトウェアを他のソフトウェアが「認識しようとしてしきれない」ということしか起きていないから。

でも「彼」がおよそ「彼」というソフトウェアとして感覚できなくなったことくらいは、他の「彼」にもわかるか。

それなら主観が感じることのできる現在は永遠で、死とは「彼」の永遠が「彼」にとっては永遠のまま、他の「彼」がそれが永遠でなかったことに気づく運動か。

こうやって「死とは」みたいになるのは思いつきも甚だしくて、「死」なんてどんな概念だろうがどうでもよくて、かっこつけてもしょうがなくて、動いているものに支えられてずっとぶら下がっている今が不思議ということだった。
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