グー神

 グー神とパー神がいた。グー神とパー神が争えば、決まってパー神が勝利を手にした。あるとき、敗れたグー神が嘆いて言うには、
「私はいまだかつて存在しなかったことはないが、その存在の際にパー神に勝利したこともまた無い。勝ったことのある相手といえばトックリヤシぐらいのものなので、一度でもなにか他のものに勝ってみたい」
 その場にいたパー神が言うには、
「ものごとは勝ち負けじゃないよ。私はトックリヤシというものをこの目に見たことがないし、あなたグー神はいつも道でイヌというイヌに舐められているではないか。私はいまだかつてブタという生き物を見たことがないが、人間がいうには美味しいということらしいよ」
 グー神が言うには、
「そのようにあなたパー神が考えるのであれば、次には私に勝利を与えてください。私には勝利が必要です」
 グー神が重ねて言うには、
「ああ、私は今にも死んでしまいそうです。勝利が与えられないというのは死と同じです。存在していても死んでいるということはこのようにあります。私はトックリヤシに対してしか生きていないのと同じです」
 グー神が重ねて言うには、
「パー神、パー神、勝利を与えてください。パー神、勝利を与えてください」
 パー神が答えて言うには、
「人生に勝ち負けはないよ」
 パー神がさらに言うには、
「グーパー! グーパー!」
 グー神、パー神
「グーパーグーパー!」
「グー!」「パー!」「グー!」「パー!」「グー!」 
「・・・・・・」

パソコンに引きずられる。

一緒に仕事をしている敬愛する企画のおじいさんは、いつもレポート用紙にアイデアとか企画書とかなんでも鉛筆で書いていて、理由を「パソコンに引きずられるから」と言っていた。

タイピングで文章を書くときに、データを作成して、字を画面に表示するのには「入力→変換→出力」という仕組みというかルールというかが必要なはずで、それを1と0の積み重ねでやってるんだと思うけど、ようはルールを通して思考を表現しているわけで、それは確かに、筆記具をつかって紙やらに書き付けるのとは全然違う行為で、でも前提があるぶん、文章を作成するのは圧倒的に早い。

そういえば、宮澤さんの所属する坂口安吾研究会に前田塁が出て話をしたときについていったときに(テーマはそうだ「安吾と速度」だった)、パネラーの川村湊が「もうタイピングに直筆は全然速さでかなわなくて、仕事では使えない」と言っていた。仕事っつっても色々あるんだと思う。

保坂和志が「考えるために小説を書いている」と『小説の自由』からつづく三部作のどれかで言ってて、保坂和志はたしか手書きで原稿を書いてたはずで、どっちがいいかは置いといても、違いはもっと知っておきたい。

企画のおじいさんは「パソコンに引きずられると書きたいことが前面にでて論理性が欠ける」といっていて、私はこのブログを書くときに手書き原稿を用意しないけど、まあそれが原因かわからんけど、確かにひどい文章で、思いつきが右往左往するだけだ。

全然まとまらずに今日もおしまい。

けど今思いついたけど、①結論をわかりやすく導くために論理という構造を提示する必要がある。②結論は与えられるものではない。

言語的に構成すれば論理的に問題ない文章は量産できるわけで、前提と結論が人を納得させるには、論理性だけではそうならない。

じゃあなにが人を納得させるのか。

情熱だ!パッションヌだ!とは言いたくなくて、
もっと丁寧に複雑に知りたい。

なにが人を納得させるか。説得力を持つか。
納得させる相手を一般化することが不可能というのがひとつのヒントとして出てくる。その先はまた今度考える。

また。

変な時間

 最近リズムを確保するために睡眠薬飲んでいたから、今日疲れてて飲まずに寝たら変な時間に起きてしまった。

 シャワーを浴びたら頭がさえて眠くなくなって、少し考えた。

 気がかりになっていることっていつも少なからずあって、それは客観的に把握している(しようとしている)自分の欲望(目標でもいい)と全然脈絡無く思えて、そのときしていること、特に仕事だったりすれば、「いかんいかん余計なこと考えずにやらねば」と思って振り払って当座の作業に向かうと、気がかりな対象は忘れられる。忘れるからまた出てくる。
 そして気にかかってることに気づく。キに引っかかってぶらぶらゆれている。

 そういう気にかかるものについて、それが仕事や当座やらなくてはならないと思っていることと関係がなくて、極端に言って無駄な気の移ろいに思えても、すくなくとも気にかかっていることに気づいたときには丁寧に考えて、結論をだすかどうかはともかく、考えの道筋くらいは整理できれば、それは自分になにかいいことをもたらしそうだと思いついた。

「なにかいいこと」というのがいかにも思いつきという感じだけど、効率的にやろうとか速度を上げようという態度はツイッターとかでみんなつぶやいていて、にもかかわらずツイッターでつぶやいているから非効率に違いないんだけど、ストイックさとか合理的さとか戦略的さとかを、最大限発揮してしまったときに、残るのはほとんど結果だけで、結果がでればいいというのがこういう発想なのかもしれないけど、というかその求めてる「結果」に自由な時間を得るための条件は織り込まれてるんだとは思うんだけど、やっぱりその構造は逆に素朴に非効率だと思う。

 重松清の小説で『エイジ』だったか、忘れたけど、優等生の友達が塾行く途中かなんかにメロンパンを必死に食べてるのを主人公が目撃するところがあって、それとかアメリカの名門大学でたエリートが兵器会社の研究開発に没頭する合間にジャンクフードみたいなのを「これが大好きなんだ」と食べているのをなんかのドキュメンタリーでみて、そういう合理的に説明できない環境とか経験の偶然性の蓄積に拠る嗜好性みたいなところはずっとどの人間にも保存されてる。

 だから、もっとスマートな人間は「自由な時間」「自由になれる場所」を効率化して求める「結果」に織り込んでるんだと、繰り返しになっちゃったけど、そういう印象はテレビ見てても、ネット見てても、実際にいろんな人にあっても思う。

 効率に還元できないものを求めて効率化するっていう構造と別に、或いは同時に、「断続に充たされる」「際限なく満足する」というようなこと、そういうものが可能になる構造とかあるいは流れについて真剣に丁寧に考えると、「なにかいいこと」というひどく曖昧な予感の向こうからやってくるものを歓迎できるかもしれない。

連休終る











横浜トリエンナーレは基本撮影OKでおどろいた。
真ん中ぐらいにある髪を切ってる映像の写真は、
タナカコーキというひとの作品のひとつで、
9人のヘアドレッサーが同時に一人を切るというのを、
説明もなくただひたすら撮っていて、
企画の説明もないんだけど、すごく引き込まれる。
唐突だけれども引き込まれてしまうということが、
ひとつアートの条件であるのだといまさら思う。
複製可能かどうかは問題ない。

a haircut by 9 hairdressers at once (second attempt)

出会ったとき、受け止められたとき、咀嚼されていくとき、
そのときどきに衝撃的であるなら、その表現は説明を必要としない。

ある表現に、「これの意味は?」と聞いてしまう人に問題があるかのような話の展開は一面的過ぎて、「これの意味は?」と言わせないだけの表現もそのときどき可能だと思った。もちろん程度はあるけど。

もうひとつ、犬に無視され続ける作品。
Showing objects to a dog