変な時間

 最近リズムを確保するために睡眠薬飲んでいたから、今日疲れてて飲まずに寝たら変な時間に起きてしまった。

 シャワーを浴びたら頭がさえて眠くなくなって、少し考えた。

 気がかりになっていることっていつも少なからずあって、それは客観的に把握している(しようとしている)自分の欲望(目標でもいい)と全然脈絡無く思えて、そのときしていること、特に仕事だったりすれば、「いかんいかん余計なこと考えずにやらねば」と思って振り払って当座の作業に向かうと、気がかりな対象は忘れられる。忘れるからまた出てくる。
 そして気にかかってることに気づく。キに引っかかってぶらぶらゆれている。

 そういう気にかかるものについて、それが仕事や当座やらなくてはならないと思っていることと関係がなくて、極端に言って無駄な気の移ろいに思えても、すくなくとも気にかかっていることに気づいたときには丁寧に考えて、結論をだすかどうかはともかく、考えの道筋くらいは整理できれば、それは自分になにかいいことをもたらしそうだと思いついた。

「なにかいいこと」というのがいかにも思いつきという感じだけど、効率的にやろうとか速度を上げようという態度はツイッターとかでみんなつぶやいていて、にもかかわらずツイッターでつぶやいているから非効率に違いないんだけど、ストイックさとか合理的さとか戦略的さとかを、最大限発揮してしまったときに、残るのはほとんど結果だけで、結果がでればいいというのがこういう発想なのかもしれないけど、というかその求めてる「結果」に自由な時間を得るための条件は織り込まれてるんだとは思うんだけど、やっぱりその構造は逆に素朴に非効率だと思う。

 重松清の小説で『エイジ』だったか、忘れたけど、優等生の友達が塾行く途中かなんかにメロンパンを必死に食べてるのを主人公が目撃するところがあって、それとかアメリカの名門大学でたエリートが兵器会社の研究開発に没頭する合間にジャンクフードみたいなのを「これが大好きなんだ」と食べているのをなんかのドキュメンタリーでみて、そういう合理的に説明できない環境とか経験の偶然性の蓄積に拠る嗜好性みたいなところはずっとどの人間にも保存されてる。

 だから、もっとスマートな人間は「自由な時間」「自由になれる場所」を効率化して求める「結果」に織り込んでるんだと、繰り返しになっちゃったけど、そういう印象はテレビ見てても、ネット見てても、実際にいろんな人にあっても思う。

 効率に還元できないものを求めて効率化するっていう構造と別に、或いは同時に、「断続に充たされる」「際限なく満足する」というようなこと、そういうものが可能になる構造とかあるいは流れについて真剣に丁寧に考えると、「なにかいいこと」というひどく曖昧な予感の向こうからやってくるものを歓迎できるかもしれない。