エンジョイ・アワー・フリータイム 言祝ぐべきこと

足りないのはポップさだ!

体調を崩してずっと仕事を休んでいる。

私のやるべきことを引き継いでくれているTさんにハンパなく感謝する。(たぶんこのブログなんて見ないだろうけど)

そして休んでいる間に少し本を読んだ。

こないだ、体調を崩す前に、

早稲田の南方郵便機というコーヒー豆屋兼カフェでフリーペーパー『好物』の打ち合わせをしたときに、

西口さんが遅い誕生日プレゼントとしてくれた岡田利規の『エンジョイ・アワー・フリータイム』をきょう読み終えた。

そういえばこないだ、もっと前に体調崩して寝てたときも、岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を読んでた。(というか読み終えた。)

岡田利規チェルフィッチュという劇団を主宰していて、私の大学の先輩の武井さんが面白いから見に行こうといって、確か、四年生のときに一緒に見に行った、ときに買ったのが新潮文庫の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で、それを途中まで読んでたけど、しばらくほっといたのを、こないだ(旧いほうの)読んだんだった。

今回読んだ『エンジョイ〜』は戯曲集で、武井さんと観た「ホットペッパー・クーラー・そしてお別れの挨拶」が冒頭に入っていて、私の観たことのない「フリータイム」と「エンジョイ」がそのあとに入っている。

上演された「ホットペッパー〜」を観て私は全体として面白いのか面白くないのかよくわからなくて、そんなに短くない上演時間のなかで局所的にしか「面白い」といえなかったけど(普段演劇を全然観ないので、あまりにも具体的な表現と時間に何もいえなかったのだと思う)(あと俳優のお姉さんが綺麗で、というか好みで、みとれてた面もある)、でも戯曲として読むと言葉だけなので、なんというか、ああなるほど、と思えた。それがいいことかはわからないけど。

『私たちに残された〜』でも『エンジョイ〜』でも岡田利規は若い人の口語を大事にリアルに、そしてしばしば大胆に編集しながら、創作しながら状況を表現していくんだけど、そして表現されている人達はだいたいフリーターとか派遣社員とかで、でも「若さ」のもたらす敏感さ・ナイーブさとこれも「若さ」がもたらす無関心さとか鈍感さ、乱暴さ、みたいなのが同時に複雑なまま保たれていて、みんなめっちゃ多弁(これが丁寧に口語で行われる)で、そういう若い人(というか若いか若くないかきわどい人)らが交差したりまなざしあったりする。

同時に、いろんな人が、いろんなことを考えている(そして言ったりやったりする)。

ということに説得力をもたせること、

強度をもたせること、

は映画でも小説でも漫画でも難しくて、

というのは映像でもテキストでも絵でも、表現には「視点」が必要で、

表現者が表現するときに複数の表現者にはなれないから、

今ブログを書いているのは大江遼太で、同時にほかの人間が書いたりはできないので、

(映像だとカメラ。あとは書き手、描き手)

難しいんだけど、保坂和志『残響』とか島田虎之助の漫画(たとえば『トロイメライ』)ウィリアム・ケントリッジインスタレーションとかは、そういう難しさを越えて、私たちがその時その時わかりあえないながらも、同時に違う場所で動き続けていること、そしてたとえばズレながら想いあい続けていることについて表現できているとして、岡田利規も、その一人かもしれないね、という感想。

忘れてた。以前紹介した湯浅政明もそういうことをしているんだと、私は思ってる。

長くなっちゃったので今日はここで。

いつか上記の人たちが「どうやって」そういう同時性、もっと言えば時間の立体性・多方向性について表現できているの乎! というのをここに書きたいです。

友人の中島とう子がライターが自分を売り込むイベント(?詳細知らないのでよくわからないけど)大賞を取りました!

表題の言祝ぐべきこととはこのこと。おめでとう。(たぶんこのブログなんて見ないだろうけど)

おめでとう。おめでとう。おめでとう。心からお祝いいたします。

エンジョイ・アワー・フリータイム
『エンジョイ・アワー・フリータイム』白水社
わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』新潮文庫
残響 (中公文庫)
『残響』中公文庫
トロイメライ
トロイメライ青林工藝舎

ウィリアム・ケントリッジ『鼻』