すがられる藁 ひもじい気持ち

藁にもすがる思いの人には、

すがられる藁の気持ちがわからない。

「藁にもすがる」というのは藁が助けになるようなものじゃないのが前提で、

実際、藁をつかんだって、藁は人間の重みに耐えられない。

突然つかんだ藁が光りだして、つかんだ人と一緒に救済されるという話ではない。

藁にもすがるひと、に見いだされた藁には、つかまれることに何の必然性もない。

ただの暴力である。

必死な人には必死であるだけのストーリーが必ずあるにしても、

そこにあっただけの藁にはそんなストーリーは共有されない。

すがられる藁を想えないだけ必死な人は、

そして当然ひとりぼっちである。

ひもじい気持ちが、なにがしかをつかもうとして、実際は藁をつかむ。

つかまれた藁は当然ちぎれる。

どうしたらいいのか誰かわかるでしょうか。

小島信夫の『アメリカン・スクール』を読み終わった。

なにかが起きて、翻弄されることに理由はない。

が、翻弄されていること自体の持つ説得力は逆に増していく。