動いているものにみとれてしまう

何に見とれてしまうかといえば動いているものだ。

動いているといっても、たとえば、静止した写真や絵画も、その表現のなかに動きのあるものは、いくらでも観ていることができるけれど、それにしても実際そのものが動き続けているものに対して、私はずっと感単に引き込まれてしまう。そうして、時間が過ぎた後で、積極的に受動したことによる疲れで、しばらくボーっとしてしまうことがたくさんある。

このあいだ「Yellow Submarine」というビートルズのアニメ映画を観ていて、「Lucy In The Sky With Diamonds」が流れる箇所のアニメーションが大変楽しかったので、あげておく。アニメーションの気持ちよさが、曲の気持ちよさと重なって素晴らしい。

こうやってコマごとにパチパチと色や形状が変わっていく手法は、学生のときイメージフォーラムの映像祭での実験/前衛アニメや、UPLINKの韓国インディーズアニメ祭りでの作品を思い出すし、湯浅政明もこういう方法を良く使う(四畳半神話体系の最後の五山のシーンとかMINDGAMEとか)。

なんでこれが気持ちいいのか。ずっと観てしまうのか。引き込まれてしまうのか。現状わたしは説明する言葉を持たない。

でも、糸口があるとすれば、

それは時間差によってずれて表象され続ける対象への、認識による「同一性を与えたい」という欲求と、そのように「同一」であると認識されたものが、これまた時間差による絶対的な差(時間が違えば場所も違ってくる)によって厳密に言えばゆるやかに否定され続けるという事態=現実、の避けられなさと関係していて、時間と空間が(本当はもうこの言葉で説明したくないけど)人間にどう現われてくるのか、が逆に人間が何を認識しようとするのかを規定していて、そのひとつに「変容し続ける統一体」あるいは「絶えず違った形で表現される一つのもの」を個別に認識しようとする動きがあるのだと思う。そしてそれが、アニメーションの途方もない悦びのひとつの要素になっているはずだ。アニメーションというか、表現一般の。アニメーションはそうした視覚を通して認識に作用する効果をなかば特権的に持っているけど、人間の感覚は五感にとどまらないので、あらゆる表現が「変容し続ける統一体」を表現可能なはずで、それにこだわる必要は全然ないからもうやめるけど、自分はとりわけ言語表現においてそれがどんな風にして可能か考えたい。それはまた今度の今度で。今は機会があったのでもっと、アニメーションの効果を起点にして、輪郭や色彩で空間と時間がいかに表現されるかについて考えてみたい。

で、具体的にアニメーション表現のすごい人を、ということで、マッドハウスのアニメーターで、湯浅政明作品でいつも素晴らしい作画表現をしているチョイ・ウニョン(EunYoung Choi)さんがすごい。

大学の先輩でいまは映画会社に勤めてる武井さんと、しばらく湯浅政明作品を一緒にたくさん観た時期があって、そのときにシリーズもののアニメは毎回作画担当者が変わって、それで絵柄は当然少しずつ(場合によってはかなり)違って行きながら、それがまとまって作品を構成しているということを学んだのだけど、「カイバ」でも「ケモノヅメ」でもウニョンさんの回がすごくよかった。シリーズの同一性は守られているけど、線がゆがんじゃったりとか、色がめちゃくちゃになってたりして目が離せない。

下記リンク先によると韓国の大学で彫刻を学んで、イギリスに留学してアニメーションを勉強して、日本でアニメーターになったらしい。同リンク先にドローイングとラフ動画が載っているけどやっぱりすごい。カイバとか観てると思うのは平面状に「重さ」が上手く表現されることで、周囲の空間が容易に説得力を持つすごさなんだけど、ウニョンさんのドローイングは静止画であるにも関わらず既に、重量感、存在感がすごい。実際に動いてるスケッチもあってそれは本当にすごい。彫刻を学んだことが平面表現にどういう風に影響してるか知りたい。

ウニョンさんが取り上げられた記事(WEBアニメスタイル06.11.14)

とかいう話を西口さんにしてたら、なんと西口さんの同級生のお姉さんかもしれないという話になってきた。武井さん!すごいことになってきました(笑)。可能なら直接会って話を聞きたいけどどうなんだろうか。

こういう風に考えていることと実際の人間関係がつながってくると興奮する。