単純に複雑に感じる

たしか保坂和志の『カンバセイション・ピース』のなかで、

主人公が、彼のいとこ達がビートルズを聴いていたのは初期の本当にポップミュージックとしてのビートルズで、それ以降なんかビートルズなりに色いろ悩んでシリアスな曲も歌いだすようになったあとは、聴かなくなったんじゃないか、いとこ達が聴いてたビートルズは「君と手をつなぎたい」とか「愛して欲しい」みたいなシンプルなメッセージだったんじゃないか、みたいに思う箇所があったと思うけど、

会社のトイレ便座に腰掛けてて、そのことを突然思い出して、自分はルーシーインザスカイウィズダイアモンドとか、アクロスザユニバースとかが好きで、もっと言うとジョンレノンのゴッドとかマザーとか聴いてて辛くなりつつ好きなので、「どうなのかな?」と思った。

そして、感性が複雑化していくことはどういうことかな? と思った。

時間を重ねて様々な経験をして、いろんな領域に想像力が及ぶようになると、一つの物事からいろんなことを考えるようになるけど、それで複雑な思考ができるようになるけど、端的に言ってそれは言語化や意味の相対化・整理が効率化されて慣れていくということで、自分の価値観がしっかりとできあがって、そこから照らして物事をとらえることしかできないということで、実はやってることは非常にシンプルだと思った。

まだ複雑な意味/言語/価値(これらは非常に深く相関してると思うが)が用意されるまえに視たあれやこれや、は何にも落とし込まれず、有意義とも無意義とも有益とも無益ともされないで私たちを通り過ぎていったはずで、だから、子供のころの僕が三ツ矢サイダーの空き瓶を必死に覗き込んでいる写真は、僕を強烈に打ちのめす。自閉症の子供は、道路を通り過ぎる車や、落ちていく雨の一粒ひとつぶを飽きることなく視ていることがあるそうだけど、そんな風に、私たちを通り過ぎるものたち、ものたちたち、ものものたちたちたたちちのつらなり、を複雑な言語思考は、ちょっとだって捉えられないんじゃないか?

そしてそういった連続のかたまりを捉えられないからといって、言葉や意味が本質的なものから隔たっているのではなくて、そうやって捉えられないまま、だけど強くにんげんの身体に働きかけ「続ける」のが言語活動なんじゃないか。言語から出ようと身を捩りながら、発語しつづけること。それをしたい。

フリーペーパー『好物』は一周年を迎えた。
パーティーには大勢人が来てくれて、
みんな笑顔であってびっくりした。
たくさんの人がみんな笑顔であるなんて気持ち悪いこと、
ここ何年もなかったことだった。

みなさんありがとうございました。
とりあえずもう1年よろしく。

保坂和志『カンバセイション・ピース』新潮文庫
カンバセイション・ピース (新潮文庫)